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おかえり [合唱]

今朝、戻ってきました。

きっとずっと前から、傍にいない心細さを感じていた。
魂の一部が欠落したような、魂そのものが変形してしまったような。
最初のうちは自暴自棄になりそうな瞬間もあったのに、
だんだんに平気になっていく自分の心境の変化が怖かったり。
とにかく初めての感覚に戸惑う日々でした。

戻ってきてくれて良かった。

おかえりなさい。

私の中の、歌。


ドイツで、ずっと聴いてみたかった合唱団の本番を最前列で聴いてしまったら、最初の一音から完膚なきまでにノックアウトされてしまって、そこからはどんな音楽も他人事のようで、ただ頭上を通り抜けてゆくのを眺めているだけの状態でした。
クリスマスのグレゴリオ聖歌はテンション上がったし、あのドラマの主題歌「恋」は心に響く素敵な歌詞だった。でも自分が今まさに正面から向き合うべき歌とはずっとすれ違ったまま、おたまじゃくしを追うだけ。ヘンな感覚でした。

何をしたわけではないけれど、きっと時間が必要だったのかもしれない。
やっと適正量の「歌いたい」が自分の中から湧き上がってきました。

歌おう。向き合おう。今の自分で。
私には歌がある。

歌に歴史あり [合唱]

クリスマスキャロル「もみの木」がもともと失恋ソングだったことは知っていたのですが、dwのサイトにまとまった記事が載っており、初めて知ることも多かったのでフムフム言ってます

・少女の心変わりを、葉の色が変わらないもみの木にあてつけて歌ったのが元祖
・キャロルとして採用したのはライプツィヒの教会音楽家、1824年ころ
(メンデルスゾーンがバッハを再発見してたころですね!!)

→割と自由に替え歌がうまれ…
・ドイツでは学生歌、政治活動のコールに使われたりしていたものの、教会で再び歌われるようになったのは戦後
・移民とともに米国へ。南北戦争時は南部の歌、その後メリーランド州の州歌
・英国では労働運動の歌、その後労働党の非公式ソング

・そして日本では…

ふ〜ん…

和音をつくる [合唱]

台風に見舞われた3連休。
ドイツからマエストロSさんをお迎えしての合唱ワークショップに参加してきました。
しっかり歌うのは3年以上ぶり、しかも終日みっちりを3日間も歌うのはいつぶりだろう。
あまりに感極まって前日は楽譜を復習しながら半泣きでした(実話です)。

Sさんと、通訳をしてくださるオルガニストMさん。何度かこのブログにも登場していますが、
合唱指導が上手である以前に(!?)、とにかく良い人たちすぎて!!! ちょっと心配になるくらい良い人たち。
誰にでも誠実に接するし、いつも明るく元気だし、一緒にいるとこちらもどんどんピュアになってゆく気分。

全体としてのゴールは和音を美しく決めることだったように感じます(もちろんそれだけではないですが)。
フーガ部分におけるテーマの出し方・しまい方、ウェイトを置く音と置かない音、母音のつくり方。
全てが、今どういう和音を歌っていて、その中で自分がどの役まわりなのかを意識することに帰結していたような。
皆の出す音の塊からだんだんに余計なものが取り除かれてゆく過程は本当に楽しかった。

声の出し方も、しばらくぶりにチューニングしてもらった感じでスッキリしました。
次いつ歌えるのか分からないのが悲しいところですが、今回得たものを忘れず、引き続き良き楽器でありたいです。

練習と簡単なミーティングと、全てが終わって外を見ると、台風一過の美しい夕焼け。
Sさんが、アシスタントをし続けたMさんに「こっち! こっち! 夕焼けがきれいだから来て!!」と興奮気味に喚き、
小走りで前の道路まで一緒に出て行って、「ほんとだ、きれいだね~」と並んで和んでいる姿に癒されました。
気持ちの良い秋の風と、とってもきれいな夕焼けを、束の間うっとり眺めていました。

次があったら絶対にまた参加したい。
「再会」とバッティングしたら優先順位を決められずに悩むだろうなと思った行事は初めてではないだろうか。
それくらい楽しかったです(伝わりづらいですかね…)。

自分で決める [合唱]

ここ数年、毎年この季節になると自分的にすごく重い決断をしなければならなくなる。
今日はそれをやっと実行しました。は~きつかった。ここから数日は引きずるなあ。
これからもずっと、毎年毎年、こんな思いをしないといけないのだろうか。
いつかこの状況を打破できる日が来るのだろうか。考えると気が遠くなります。
何かの罰を受けているんじゃないかとか、自分が至らないのかなとか、うじうじ考えてしまう。

でも、自分で決めたこと。
卑屈にならず、素直でいよう。泣くのではなく、笑顔でいよう。
次に邂逅する音楽のために、良き歌い手、良き楽器であろう。

あああ…歌いたいな~歌いたいな~

七夕さま [合唱]

たいてい雨だよね、7月7日って…

小さいころから夢や願いごとを他人に話すのが苦手で、短冊に何を書こうか、いつも悩んでいた気がします。
でも今年は珍しく、不特定多数に公開してでも感情を吐露したい衝動に駆られている。

春からずっと歌ってないです。
春まで短期間は合唱してたけど、その前も全然。もう3年くらいこんな感じ。
自分で選んだ仕事だから不満を言うのはフェアじゃないけど、
歌のことで折れたり腐ったりするのは主義に反するけど、
でも本当は心が折れそうです。歌っている全ての人が妬ましい。

願いが叶うなら、歌が歌いたいです。
自分の下手さに凹んだり、できなかったことが少しずつできるようになったり、
歌いたいと思っていた作品を仕上げたり、知らなかった作品に出合って格闘したり。
自分はずっとそうやって生きていくんだと思っていたのに。

どうしてこんなに焦るんだろうな私は。音楽はきっと待っていてくれるのに。
季節が巡ると歌が湧き出て止まらなくなるのに。歌は私といつも共にあるのに。
まあ仕方ないかな、これが合唱愛好家の因業ってものなんだろうな。はぁぁ~歌いたいな~

欠乏症 [合唱]

歌いたい…

茫然自失きた [合唱]

公演番号321 カペラ・サンクトペテルブルク

噂には聞いてたロシア合唱、ハンパなかった…

音域が広いのもさることながら(バスのオクタビスト氏が自ら下ずっていくのにはウケた)ピアニシモとフォルテシモの間の距離が。カリーニングラードとウラジオストクくらいあったかなあ。私なんて祐天寺と中目黒くらいしかないのに。しかも精巧。そしてドヤ顔。
下腹の出た黒装束のおっさん達と、おっさんより男前なおばちゃん達。体格が違うとはいえ、自分のやってきた歌とか合唱とか何だったんだろうと考えてしまいました。合唱って奥が深い。
一生かけても追いつけなさそうなものを聴きましたが、でもちゃんと自分も歌うことに本気で一生をかけようと思いました。












…などと冷静でいられたのは最初の5分、あとはパワフルなサウンドにもみくちゃにされて思考停止状態でした。そして何だか異常にアドレナリンが出てきた気がする…

目標はなんですか [合唱]

合唱を始めたのが中学1年。たくさん歌いたくて、上手になりたくて夢中で走ってきました。
中学3年のクリスマス。何となく、私はこれを一生続けるんだろうなと、本当に何となく感じてから、いろんなご縁があって今も細々と歌い続けています。

とにかく歌っていたくて、具体的な夢とか目標みたいのは特になかったなあと改めて思ったのは、2010年に「マタイ受難曲」で少年合唱パートをやったときでした。このパートだけは初めて作品を聴いたときからどうしても一度やってみたくて、オーディションに受かったときは本気のガッツポーズだったし、本番も迷いなく悔いなく歌い切ったと思っています。
目標があって、オーディションに挑戦する人の気分ってこういう感じなんだ…と、もうひとりの自分が冷静に見ていました。そういう意味での歌における目標って、私には他にないなあ。

こだわりと言えるものはあります。長く歌いたい。そのために上手になりたい。選べるなら教会音楽を歌いたい。選べるなら教会で歌いたい。誰かのためではなく、まず自分が慰められるために歌いたい。本番より練習のほうが好き。
でも、歌で何かを成し遂げたいとか、歌でこのレベルまでいきたいとか、そういうのがないです。
合唱をする人にはそれぞれ歌に対するスタンスがあって、いろんなスタンスの人が一緒になって歌っているから化学反応もあって面白いんだろうな。特に教会音楽の合唱は感じ方も皆いろいろで、それでも練習していてうっかり心が一つになっちゃったりする瞬間がたまらなく好きだったりします。

「マタイ」を終えてから、合唱人生で初めて目標に向かって走り、走り切ってしまったせいか、燃え尽きたような脱力感に見舞われた時期がありました。次は何を目標に歌おう。目標ってあったほうが良いのかな。…何だかヘンな感じでした。そのまま忙しくなって歌う時間が減ってしまったのもあって、しばらく自分の中で整理がつかないでいました。
小さな夢とか欲とか、そういうのはフツフツと自分の中に湧いてきています。この曲を歌ってみたいとか、あの人と共演してみたいとか。年末から歌に復帰してみて気付いたのは、そういう小さな夢とか欲みたいなものは、案外ずっと持ち続けてきたのかも知れないということです。
でも、詳しいことは内緒。夢は他人に言ったら減っちゃうと、今でも純粋に信じている数少ない領域が、私の中では合唱なのです。

…で、どうして急にこんな話をしたかというと、「あの人と共演してみたい」と思っている人と一緒に歌って、語って、ごはんをゴチになる…という夢のような内容の夢で目が覚め、ホクホク幸せ気分で一日をスタートしたからなのです♪
夢の中の自分は大はしゃぎで舞い上がっており、そのテンションに自分でびっくり。○○さんごちそうさまでした。いつか本当にご一緒したいな~

原点に返る日 [合唱]

会社を休んで横浜にある母校のクリスマス礼拝へ行ってきました。

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震災で校舎が軽く被災し、なかなか大変な一年だったようですが、相変わらず逞しい先生生徒たち。校舎も何事もなかったかのようにきれいになってました。

学校が大好きで、楽しみ尽くして卒業したつもりですが、久々に講堂の椅子に腰掛けると、ああずっとここの子でいたい、という抗い難い誘惑に落っこちていきそうになります。今となっては出てから学んだことのほうがずっと多いのに、やっぱりここで自分は育ったのだと強く感じます。

部活で聖歌隊に入ったのが私の合唱ライフの出発点です。
クリスマス礼拝は活躍の場、そして大好きなイベント。思い出が多すぎて今でも胸がきゅんとなります。
…今の自分はあのころの自分くらい真剣に歌に向き合っているか。
…あのころ歌いながら感じたいろんなことを忘れていないか。
…なぜ歌うのか。なぜ歌い続けたいと思うのか。なぜ上手になりたいのか。

キャロルを聴きながら、寒空の下、楽譜を抱えて廊下を走っていた中学・高校時代の自分を思い出し、今の自分に問いかける大切なイベントです。

「歌がうまい」って何だろう [合唱]

歌を始めたばかりの中学・高校時代は、
「歌うまいね」ってほめられると飛び上がるほど嬉しかったのに、
最近はポジティブなコメントをいただくと即スランプに入ります。
だから、あんまりほめられるの好きじゃない。

そもそも「歌がうまい」の定義ってすごく曖昧ですよね。
歌なんて生まれた傍から消えていくものなのに、
さっき上手に歌えたからって次も上手に歌えるとは限らない。
声がきれいなら良いってものでもないし、
曲やジャンルによって得意・不得意もあるし。

すごく考えて悩んで、でも考え尽くして悩み切るほどの余裕もなくて、
答えが出たんだか出ないんだか分からないままに歌って、
それでほめられると、まあちょっと満更でもない気分にはなるものの、
もう次に同じクオリティで歌うの無理かも、っていう状況で、
自分では全然満足いってないのに一定の評価を下されちゃうのって、
すごく突き放されたようで、気が遠くなる。
「歌うまいね」って言われると、なんて無責任なこと言ってくれるんだと思う。


でも。
「この人、歌うまいな」って思うとき、別に無責任なつもりはなくて、
私はその人の歌を聞いて確実に深く感動しているんですよね。
その瞬間に生まれたサウンドや歌の世界観だけじゃなくて、
歌い手がどんなふうに歌を愛おしみ、悩み、努力しているかが、何となく伝わってきて心が震える。

私の歌も、聞いている誰かの心を少しでも震わせたりしているのでしょうか。
いつも手探りです。ほめられても、ちっとも嬉しくないくらいビビりで。
本当は、他人の評価なんて跳ね返して歌える強さや自信があったら良いんだけれど。
決して強くない喉と、決して歌心があるでもない魂と付き合いつつ、
ひたすら歌うしかないです。歌が好きな気持ちはどうにもならないから。

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