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郷愁の焼きうどん [その他見聞]

東京・四ツ谷の、ちょっと説明しにくい位置に、その店はあった。学生時代、サークルの練習後やちょっとした打上げ、打合せなんかはここ、と殆ど決まっていた。木目の床が懐かしい、古いマンガが置いてある、ちょっとひなびた喫茶店。
その店の名は「ピステ」。雪山のゲレンデを意味する、でもどこから見ても東京の路地の喫茶店に、体育会系とはほど遠い私たちは、しょっちゅう集っては晩ごはんをごちそうになった。そのピステが10月いっぱいで閉店する、という知らせを私が聞いたのは、まさに前日の夜のことだった。ギリギリセーフ。

名物は焼きうどん。いや本当は名物でもなかったのかもしれないけれど、私たちはいつも焼きうどんをオーダーした。ジュージューと音を立てながら運ばれてくる鉄鍋。その場でお醤油をかけて、香ばしいにおいを立てる焼きうどんを、フーフーしながら食べるのが、何ともいえず美味しかった。
オーナーのおじさんとおばさんは本当に気のいいご夫妻で、打上げなどでご無理をお願いしても、いつも快く引き受けてくださった。焼きうどんばかり注文する私たちに、あの鉄鍋は全部で27枚だから、と楽屋裏インフォまで教えてくださった。その後サークルの後輩たちは、「クリスマス・貸切・徹夜」なんて大胆な注文も聞いていただいたらしい。本当に親切なお店だった。テレビではいつも巨人戦をやっていた。ガヤガヤ大騒ぎする学生たちと、静かに雑誌を読んでいるサラリーマンのおじさんが、心地よく共存している空間だった。

閉店の日、仕事が長引いたけれどランチタイムのオーダーストップ直前に滑り込むことができた。大家さんの都合で、店を引き払うことになったのだという。まだその後のことは何も決まっていないとのことだった。どうしていいのか分からないまま、これまでお世話になったお客さんにもどうやって知らせたらいいのかモタモタしているあいだに、最後の日になっちゃったの。おばさんは忙しく立ち働きながらそんなふうに説明してくれた。
私は迷わず焼きうどんを注文した。それから、ちょっと羽振りがいいときにオプションで飲んでいたミルクセーキ。心なしか、焼きうどんはお肉がいつもよりも多めだったような気がした。口数が少なくて、キッチンからなかなか出てこないおじさんが、ミルクセーキをつくっている音が聞こえてきた。たまらなく切なかった。

お会計のとき、おばさんに呼ばれておじさんが出てきてくれた。たくさんお客さんを連れてきてくれて、どうもありがとう、と小さな声でお礼をいってくれた。うるさいお客ばかりで、ご迷惑だったでしょ。いえいえ、賑やかで良かったですよ。
…会話を続けるのが、つらかった。全部過去形なんだもの。また食べに来ます、また後輩を連れてきます、そんな言葉がノドまで出かかっていたのに。
人は、とかく自分ひとりで大人になったような気分になってしまうことがある。多くの人に愛され、心配され、叱られ、養ってもらいながら育っていくのに、だんだんにそれを忘れていく。私もここのおじさんとおばさんに、ご夫妻のつくる焼きうどんに育ててもらったのだ。ふと、平日の昼間にそんなことを考えてしんみりしてしまった。もっとゆっくりしていたかったけれど、仕事があるから足早に失礼してきた。おじさんとおばさんは、私の背中を見てどう思ったのだろう。ちょっとは大人になったと、安心してくれたのだろうか。

またお店を始めるときにはご連絡くださるそうです。進展があったらこのブログでお知らせします。


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あんぱんな

四ツ谷 ピステ で検索してたどり着きました。
サークルの練習後のお夕飯に何度焼うどんをいただいたことか…。

あり合わせのもので、久しぶりに焼うどんを作ってみました。
具が何だったかはうろ覚えですが、
バターと醤油の味は忘れられません。
楽しかった大学生活を思い出す、懐かしの味です。
by あんぱんな (2015-12-12 15:12) 

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