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ひとりにひとつ [その他見聞]

今夜は仕事を早めに切り上げ、年末からずっと楽しみにしていた演奏会へ行ってきました。
プログラムはシューベルトの歌曲。優しくて力強いテノールで、あまり演奏されないような曲にも意欲的に取り組む歌い手さんなので、どんな歌が聴けるのかワクワクして出かけたのでした。

…がしかし、1曲めから何となく様子がおかしい。抑え目の声。そういう曲なのかな?
2曲めを終えると、「実は今日、カゼをひいてまして」とのこと。
プロの演奏家としてあってはならないことなのだけれど、あまりにも苦しそうで、聴いているこちらまでもがつらくなってきた3曲め、ついに声が出なくなり、結局コンサートは日を改めて、今日のチケット代は払い戻し、ということになったのでした。

聴衆としては、あれ以上歌われたら今後に響くんじゃないかとハラハラしていたところだったので、仕切りなおしという英断をしていただいて気持ちよく会場を後にしたのですが、ご本人は相当ショックだったと思います。演奏会場の出口で挨拶に立つ姿は耳まで真っ赤、目も潤んでいて、本当にキツそうでした。

私も中学から合唱を続けていて、本番前に音楽の先生に見ていただく日、などモロ肝心のタイミングで体調を崩し、声が出なくなることがよくありました。最近はさすがにそうでもなくなりましたが…。自分の体調管理がなってないのが原因だと思うと悔しくて、声がなくなるまでともかく歌おうとするのですが、免疫力が弱っているときにノドに負担をかけることは、声帯を傷つけて一生声が出なくなることもあるくらい歌い手として危険なことで、ビービー泣いては先輩や先生に怒られていたものです。ノドの調子がおかしいときは、少々ワガママを言ってでも絶対安静にするのがベスト、聴いてくださる方に対する姿勢としても大切なのですが、そんなふうに納得することってなかなかできないものなんですよね…

でも、そんなふうに声がなくなってみると、どれだけ自分にとって歌うことが大切か、歌う喜びや歌詞、歌の旋律、音楽する仲間、そして聴衆に、どれだけ支えられて自分が生きているか、そのありがたみを痛感させられます。後になって考えてみると、声がなくなるタイミングって、そういう当たり前の喜びを自分が忘れてしまっていて、歌の神様が驕っている自分を窘めてくれているときなのかもしれないと思うのです。
失ってみて初めて、自分に与えられた環境がどれだけ素晴らしいか分かる。人間だれしもカゼをひくのを避けられないのと同様に、当たり前のありがたさを忘れてしまうのも避けられないものなのかなと、今夜はしみじみ感じました。

会社員として働いていると、自分の健康を顧みずにシャカリキに働く人によく出会います。仕事が好きなんだろうし、そうやって全力で働いているときには大きな病気や怪我もせずに乗り切れてしまうのかもしれないです。でも本当は、健康な身体も、仕事するうえで求められている能力やその人の個性も、かけがえのない、その人にしか持ち得ないものなのだということを、忘れてはいけないんじゃないかと思うのです。

改めて演奏会の日時を知らせてもらえるそうです。
仕切りなおしバージョンを聴いてきたら、今度は実名入りで感想をアップしようと思います。
早く体調がよくなりますように…


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バッハ バイオリン協奏曲(ウィーン・コンツェルトゥス・ムジクス/アーノンクール) [その他見聞]

「私はスコアを読んで自問しました。“一体なぜ皆は楽譜に書いてあることを無視するのだろう”」(解説冊子・アーノンクールのプロフィールより)

自分へのクリスマスプレゼントとして、ソニーのウォークマンを買った。ドイツ語の勉強をする、という理由もちょっとあった。最近ではポッドキャストでドイツのラジオ局のニュースなども聞けるようになったので、耳を鍛える意味でもいいかな、と。
ウォークマンを買った帰り道、ついでにバッハのCDでも、とタワレコに立ち寄り、ずっと欲しかったバイオリン協奏曲のCDをゲット。2つのバイオリンのための協奏曲(BWV1043)が大好きで、是非ウォークマンに入れて持ち歩きたいと思った。でも器楽ってあまり詳しくないので、どの演奏家のCDがいいのか、買ってみて大外れだったらどうしよう…などとあれこれ逡巡した挙げ句、結局はジャケ買いでアーノンクールを買ってきた。
内容は、2つのバイオリンのための協奏曲のほかに、バイオリン協奏曲が3曲(BWV1042、1041、1056[復元版])のほかに、オーボエとバイオリンのための協奏曲(BWV1060[復元版])。新しいおもちゃを買ったみたいにウォークマンをセットアップして、さっそくこのCDを持ち歩いている。

器楽のことはよく分からない。聴いていて調子外れだなと思うことや、歌の伴奏の場合には合わせにくいと感じることもあるけれど、それ以上の細かい技術的なことは聞き分けられない。でも聴いていて、ああ、楽しそうに弾いているな、というのはけっこう分かる。そしてバッハの作品でそういう感触があると、何だかとても嬉しくなってしまう。
バッハの作品は奥が深くて、どうやって演奏していいものやら解釈が分かれることが多い。以前、チェロ奏者の藤原真理さんの書いた文章を読んだけれど、先輩の楽譜にある書き込みを参考にさせてもらおうとして借りてみたものの、10人分見れば10人分、全く違った書き込みがしてあったという。メリスマの歌い方、装飾音符のつけ方、フレージング。当時はこうだったに違いない、とか、このフレーズはイタリアの様式の影響を受けている、とか議論百出、21世紀に演奏するんだからこう、という新しい解釈で弾く人もいて、同じバッハでも演奏者によって全く違う表情を見せる。でもそんなふうに曲に向かい合っている時間が何とも楽しいのであって、バッハの演奏からは「楽しく演奏している」雰囲気が伝わってくることが多い。こんなふうに曲と向き合っている間に、誰もがバッハを好きになってしまうのではないかと思う。

アーノンクールの演奏はクセがなく、それでいて濃いめのコーヒーみたいな味がある。イタリア料理のあとに出てくるコテコテのエスプレッソではなくて、最後の一口まで、味も香りも「ああ、コーヒー」と味わうような、ウィーンのコーヒー。アーノンクールが言うように、余計な解釈を加えるのではなくて、楽譜のとおりに弾いている感じがする。それでいて演奏者の顔が見えないわけでもなく、やっぱり楽しそうに弾くアンサンブルの面々の、みなぎるようなバッハへの熱情が伝わってくるような気がする。ああ、この人たちもやっぱり、バッハが好きなんだ。会社の年末清掃で、デスク周りを片付けながら、イヤホンを通して聞こえてくるサウンドに、そんなことを思った。

バッハ:ヴァイオリン協奏曲集[全5曲]

バッハ:ヴァイオリン協奏曲集[全5曲]

  • アーティスト: アーノンクール(アリス), ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス, プファイファー(バルター), バッハ, アーノンクール(ニコラウス), シェフトライン(ユルク)
  • 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2000/06/21
  • メディア: CD


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元気の出るバイオリン [その他見聞]

大阪に本拠地を置く日本テレマン協会の、管弦楽部門であるコレギウム・ムジクム・テレマン。年に数回行われる東京公演のうち、11月は英国のバイオリニスト、サイモン・スタンデイジさんがコンマスとして客演するのが目玉。今回は大好きなソプラノの中村朋子さんも出演されるとあって、雨が降って寒い中、聴いて参りました。
出し物は、モーツアルトイヤーということもあり、モーツアルトが中心。そこにイギリス人ボイス(初めて聴いた)の歌曲、「ロンドンのバッハ」ことヨハン・クリストフのアンサンブルなど。後期バロックと初期古典派が共存した1764年に視点を据えたプログラムでした。

コンマス:スタンデイジさんは、職人肌のバイオリニスト。以前、プログラムの進行を無視して、休憩をすっ飛ばして弾ききってしまったことがあるくらい、入り込むと抜け出せない感じのおじさん。音は、立ってるのに柔軟性もあり、気分で弾いているように見えながら繊細で技巧的。でも、それより何より気になるのは、メガネ。
出てくるときは、胸のポケットに入ってます。で、スチャ! とかけると楽器スタンバイ。合図があって演奏スタート。そして演奏が終わると、やおらメガネを外してお辞儀。次の曲が始まる前にまた装着。…何。
とにかくこの、メガネの付け外しが、規則性があるようなないような、こだわりもあるようなないような、よく分からないけれど気になるし、引き付けられるのです。たかがメガネ、されどメガネ。すごい存在感。場の空気をつくる力でもあるし、気がつくとその流れで演奏のイニシアチブも執ってしまっている。本当に不思議だし、謎です。

ソプラノ:中村朋子さん。大阪では「ヘンデル歌い」として有名で、ヘンデルを歌わせたらピカイチ。私も初めて聴いたのが「メサイア」で、もうメロメロでした。何て言ったらいいのかなあ、ヘンデルの歌を、昔の人がつくった昔の音楽としてではなく、今ここにいる自分が、自分の言葉と自分の心情で歌ってます、っていう感じがバンバン伝わってくるの。歌の上手な人はたくさんいるけれど、こんなふうにライブ感のあるヘンデルって聴いたことないです。しかも喋らせると元気な大阪のねえちゃんだったりするのがまた。今回のボイスみたいな、ちょっと詩的でオペレッタみたいな歌もしっとりチャーミングでよかったです。

チェンバロ:中野振一郎氏。顔はコメディアン。小柄で、前髪ふわふわ。のけぞって弾く。でも(←でも!?)チェンバロの腕は確かです。管弦楽に限らず、テレマンって全体的にノリが大阪的で、緻密な練習とかしてないだろー、と突っ込みたくなるポイント多数なのですが、それでも何となくまとまってしまい、しかも楽しくてしかも聴き応えも存分にあるのは、この人のチェンバロのおかげではないかと思います。決して正統派の弾き方ではないし、演奏者のキャラが強く出ていて好き嫌いも分かれるかもしれないですが、ここまでキッパリと「ここはこういう弾き方なの!!」って確信を持って弾いていただけると、爽快で私は好きです。「東京では絶対しない」と言っていたMCも最近はちょっとずつ増えてきました。

バイオリン:常任コンマスの中山裕一さん。実は数年前、ご縁があり大阪にて、某演奏会の本番当日にリハーサルを見学させていただいてしまったことがありまして、その折に衣装じゃなくジーパンにセーターで実に楽しそうにアンサンブルしていた中山さんに、私は一目惚れしてしまったのでした。イケメンというよりハンサム(←私の男性のツボです)、ちょっと育ちが良さそうなノンビリ系のお顔で、何より実に楽しそうにバイオリンを弾くのです。音も凛とした優しさがあって、聴いていて心地いい。歳は私と3つくらいしか違わないはずなのに、若いころからコンマスを任されて頑張っているお方。今回の演奏会で何より驚いたのは、中山さんが上手になっていたことです。
もともと上手だとは思っていたのですが、どこか粗さというか、部分的にないがしろにされているところがあったり、音が飛ぶところが不安だったりしたのに、今回は曲全体をすごく緻密に仕上げてきている感じがしました。弦の上げ下ろしにしてもフレージングにしても、全てにおいて確信を持って弾いてるのが伝わってきて、グングン引き込まれました。特に最後のヘンデルは圧巻で、もっとずっと聴いてみたいと思わされるパフォーマンスでした。
スタンデイジさんとも堂々と渡り合ってる感じがしました。以前は「師弟対決!」みたいな雰囲気だったのが、今回は同じ土俵の上で弾いてるように見えたし。そうだなあ、スタンデイジさんのバイオリンは、カラダの一部(メガネ以上にね…)という感じだし、彼の音は職人芸で、英語を喋るくらい(←ペラペラです)自然に、バイオリンを通して音が流れ出てくるイメージ。それに対して中山さんのは、とにかく「上手になった」ことが強いインパクトとして残りました。日々、楽器と格闘してきた人の出す音。コンマスという役割のプレッシャーと闘いながら、多くの舞台をこなし、日々研鑽を積んできた人の音。同時代に生きる人間として、同世代の人間として、ハッとさせられる演奏でした。
私にはここ数年で「上手になった」ものって、あるのかなあ。ソツなく、無難にこなせるものってけっこうあって、歌もそこそこちゃんと歌えるつもり。他人に文句を言われない程度には練習しているし、合唱の一員として恥ずかしくない歌唱力もキープしているつもり。文章を書くことも、ドイツ語も、仕事もそう。でも、向上心とか、上手になるための努力とか、ハングリー精神とか、結果とかは、どうなんだろう。中学1年のころ、アツイほどに歌が上手になりたかった気持ち。あのころの自分に負けていないか、いつも自分に問いかけようと思って生きてきたけれど、結局そういうことだよね。人間、ハングリーじゃなくなったら負け。ソツなくできても、意味ないと思う。だってハングリーにやって、結果を出している人のほうが絶対カッコいいし、輝いてるもん。そんなふうにハングリーに勝負している人が、こんなところにもいるんだと、私が「ハンサムでいいわ~♪」なんて言っている間に、歳もそんなに違わないのに、実力も兼ね備えた演奏家として、着実に成長している人がいるんだと、ライブではっきりと思い知らされて、脳天を叩かれたみたいな衝撃を受けました。

思い出しました。テレマンの演奏って大味で、たまに粗かったりするのに、でもやっぱり好きで聴いてしまうのは、テレマンの演奏を聴くと、何だか元気になれるから。マニアックな解説とか曲解釈とかなく、聴く人に自由な空想の翼を与える音楽、明日からまた頑張ろう、と思える音楽。
さあー、今週も元気に頑張るぞ。

↓元気の出るオススメ盤

バッハ:チェンバロ協奏曲

バッハ:チェンバロ協奏曲

  • アーティスト: 中野振一郎, コレギウム・ムジクム・テレマン
  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2000/12/21
  • メディア: CD


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郷愁の焼きうどん [その他見聞]

東京・四ツ谷の、ちょっと説明しにくい位置に、その店はあった。学生時代、サークルの練習後やちょっとした打上げ、打合せなんかはここ、と殆ど決まっていた。木目の床が懐かしい、古いマンガが置いてある、ちょっとひなびた喫茶店。
その店の名は「ピステ」。雪山のゲレンデを意味する、でもどこから見ても東京の路地の喫茶店に、体育会系とはほど遠い私たちは、しょっちゅう集っては晩ごはんをごちそうになった。そのピステが10月いっぱいで閉店する、という知らせを私が聞いたのは、まさに前日の夜のことだった。ギリギリセーフ。

名物は焼きうどん。いや本当は名物でもなかったのかもしれないけれど、私たちはいつも焼きうどんをオーダーした。ジュージューと音を立てながら運ばれてくる鉄鍋。その場でお醤油をかけて、香ばしいにおいを立てる焼きうどんを、フーフーしながら食べるのが、何ともいえず美味しかった。
オーナーのおじさんとおばさんは本当に気のいいご夫妻で、打上げなどでご無理をお願いしても、いつも快く引き受けてくださった。焼きうどんばかり注文する私たちに、あの鉄鍋は全部で27枚だから、と楽屋裏インフォまで教えてくださった。その後サークルの後輩たちは、「クリスマス・貸切・徹夜」なんて大胆な注文も聞いていただいたらしい。本当に親切なお店だった。テレビではいつも巨人戦をやっていた。ガヤガヤ大騒ぎする学生たちと、静かに雑誌を読んでいるサラリーマンのおじさんが、心地よく共存している空間だった。

閉店の日、仕事が長引いたけれどランチタイムのオーダーストップ直前に滑り込むことができた。大家さんの都合で、店を引き払うことになったのだという。まだその後のことは何も決まっていないとのことだった。どうしていいのか分からないまま、これまでお世話になったお客さんにもどうやって知らせたらいいのかモタモタしているあいだに、最後の日になっちゃったの。おばさんは忙しく立ち働きながらそんなふうに説明してくれた。
私は迷わず焼きうどんを注文した。それから、ちょっと羽振りがいいときにオプションで飲んでいたミルクセーキ。心なしか、焼きうどんはお肉がいつもよりも多めだったような気がした。口数が少なくて、キッチンからなかなか出てこないおじさんが、ミルクセーキをつくっている音が聞こえてきた。たまらなく切なかった。

お会計のとき、おばさんに呼ばれておじさんが出てきてくれた。たくさんお客さんを連れてきてくれて、どうもありがとう、と小さな声でお礼をいってくれた。うるさいお客ばかりで、ご迷惑だったでしょ。いえいえ、賑やかで良かったですよ。
…会話を続けるのが、つらかった。全部過去形なんだもの。また食べに来ます、また後輩を連れてきます、そんな言葉がノドまで出かかっていたのに。
人は、とかく自分ひとりで大人になったような気分になってしまうことがある。多くの人に愛され、心配され、叱られ、養ってもらいながら育っていくのに、だんだんにそれを忘れていく。私もここのおじさんとおばさんに、ご夫妻のつくる焼きうどんに育ててもらったのだ。ふと、平日の昼間にそんなことを考えてしんみりしてしまった。もっとゆっくりしていたかったけれど、仕事があるから足早に失礼してきた。おじさんとおばさんは、私の背中を見てどう思ったのだろう。ちょっとは大人になったと、安心してくれたのだろうか。

またお店を始めるときにはご連絡くださるそうです。進展があったらこのブログでお知らせします。


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それでいいのか [その他見聞]

このところ、すこぶる健康的な生活をしており、健康診断の結果もカンペキだったし(血圧ちょっと低め)、やっぱり歌を歌う人間はこうでなくちゃ、と悦に入っていた私。まさか深夜の番組にはまるとは…。
見てしまいました、「24 」。けっきょく最後まで。
毎晩(というか毎早朝)ハラハラさせられ、寝ながら手に汗にぎって見てしまったわけですが、昨晩(ってか今朝)無事に最終回を迎えました。おつかれさまでした!!
んで、ストーリーとしては「めでたしめでたし」で終わった感のある「24」ですが、個人的には納得いかない部分が多い。突っ込みどころも多い。

まず基本的なところからで、テレビなんだから許して! 編としては
◆彼らは24時間、本当に働きづめなのだろうか。ごはん食べないの? お手洗いは?
◆24時間たってるのに、走り回ってるのに、(特に女性陣の)着衣の乱れのなさは何? お化粧もね
◆細かいですが、LAで、服装から察するに初夏か秋くらいなのに、終盤の朝7時でずいぶん暗い

続きまして、設定への突っ込み編
◆日本人を「仕事の虫」と揶揄するアメリカ人が、そもそもあんなに勤勉に働くものなのか
◆いくら重要任務とはいえ、情報という情報をああも片っ端からハッキングして、アリなわけ?

最後に、(すいません、言いたい放題ですが流してください)やっぱりアメリカって…編
◆襲撃しすぎです。すぐに撃ち合いになるのがイヤ。目的達成のためなら手段も選ばず、みたいなね
◆同様に、人が死にすぎ。敵味方とも。これで「めでたしめでたし」になる理屈が分からない
◆核弾頭とか出してくるデリカシーも分からない。発射されても教えてもらえないのか、って国民が不信感を抱いたりしないんだろうか
◆モチーフとしての「テロとの闘い」、いいかげん卒業できませんかね。アメリカが危機に晒されて、大統領プラス配下のヒーローが、しかもギリギリのとこで食い止める、みたいなストーリー、もう飽きた。特に悪役がただの悪役でしかなく、人間っぽさみたいな面を描いてもらえてないのがなー。あと、ちょっと人間関係がほつれると皆こっち側に寝返ってきて、「最後に正義が勝つ」みたいな雰囲気。これでいいのか、アメリカよ。そもそもその前にテロリストから敵意を買われないような(以下略)

なーんか、アメリカを危機から救うヒーローだったら何でもアリなところが、どうもダメ。
ま、上記の設定がないと「24」という同時進行ドラマは成り立たないわけで、文句があるなら最初から見るな、って言われそうです。

とにもかくにも、今晩からはゆっくり眠れそうです。あ、最後に
◆深夜どうしても寝付けないとき、テレビの放送が終わっちゃうと本当にへこみます。テレビを点けたまま寝る寂しがり屋さんなので。フジテレビよ、「24」直後に放送終了するのは勘弁してくれ。NHKの、外国のお城と音楽がひたすら流れているようなやつでもいいから、何か流して。焦って眠れなくなります


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劇団四季「キャッツ」@五反田キャッツシアター [その他見聞]

中学生のころ、初来日したミュージカル歌手サラ・ブライトマンのコンサートを聴きに行ったことがある。艶があって伸びるソプラノ。私の知っているミュージカル歌手にはない、飛び抜けた歌唱力と表現力を持っていた。彼女のために書かれたミュージカル「オペラ座の怪人」を初め、「ヨセフと不思議なテクニカラーのドリームコート」「ジーザス・クライスト・スーパースター」「エビータ」「スターライト・エキスプレス」など、ロンドン・ミュージカルの名作を多く生んだアンドリュー・ロイド・ウェバーという作曲家に開眼したのも、このときだった。
ロンドンへ行ったときに観たのが「オペラ座の怪人」「キャッツ」「スターライト・エキスプレス」の3本。「オペラ座」は音楽や装置もそうだけれど、キャスト一人ひとりの技術力がハンパなくて、こんなすごい舞台が毎晩さりげなく上演されているだなんて、ロンドンはすごいなと思って涙が出た作品。「スターライト」はキャストが全員ローラースケートを着けて劇場じゅうを走り回るパワフルな作品、でもナンバーは優しくて温かい曲ばかりで、よく落ち込みそうになると歌詞を書き出している。そして「キャッツ」。人間、こうまでネコっぽくなれるのかと、しかもその状態で歌い踊るなんて、と最初から最後まで圧倒されまくり。ネコたちは個性的で、ステージも花火が上がったり、通路までネコがやってきたりと、客席と舞台が一体になれる楽しいミュージカル。ロイド・ウェバーの作品は日本でも劇団四季が上演していて、思い立ったらいつでも観に行けるのに、私はこれまで一度も見たことがなかった。四季っていうと「李香蘭」みたいなオリジナル・ミュージカルのイメージが強くて。が、十数年ぶりに宝塚がフラッシュバック中の昨今、知人に誘われて行ってきました、四季の「キャッツ」。

宝塚が十数年ぶりだったら劇団四季は何年ぶりなんだろう、学生時代に一度だけ「李香蘭」を見に行ったような行ってないような…。しばらく観ないうちに四季は、専用劇場、全国展開、巨大オーディションなど、何だかマンモス劇団っぽくなっていて、久々の四季体験に私は、最初のうちタジタジだった。
でもいざ始まってみると、やっぱりミュージカル楽しい!! 何より、劇団の方向性がどう、とか劇団の規模がどう、とかいう話と関係なく、目の前にいるのは生身の人間(ネコ!?)であり、この日この瞬間のステージに命をかけている役者なのだ。そのパワフルさと、音楽やダンスナンバー、装置の面白さにすっかり引き込まれてしまった。以下、観ている最中に感じたこと。本当に楽しんでたのかよ! という突っ込みはご容赦ください。マジに楽しかったから。

◇ロンドン版しか観たことなかった人の目線:
良くも悪くも、「四季の」という冠がついた「キャッツ」になってしまっているなー。独特の発声や歌詞まわし、あとは翻訳した歌詞もちょっと字余りだったりしてオリジナルに比べたら違和感があるし。胸声と頭声のチェンジポイントもくっきり分かってしまうし、もうちょっとちゃんと歌えてもいいのに、という人もチラホラ。層が厚いとはいえ、劇団員の中からキャストを選んでいるので、この役になるべくしてなった! みたいなキャストさんではないな、という印象もあり。ただ、それが悪いとか良いということではなくて、劇団四季があの大作の上演権を持っていることへの自意識とか自負とかを強く持って舞台をつくっていることがすごく伝わってきました。日本のミュージカルのクオリティの良し悪しについては、もうこの舞台が直にそのカギを握っているんだという緊張感。参りました。

◇宝塚を中心に観て育った人の目線:
やはりスター制度がないのが、未だに慣れません。そういうものなんだから仕方ないんだけど、ポスターに名前が載っていたり、どの役を誰が演じるのかあらかじめ分かっていたり、いわゆる「当て書き」で作品が書かれていたりするほうが、どちらかというと観に行こう、というモチベーションが上がります。もうこれは、宝塚ファンの性みたいなもんですが。一方で、名もない役者さんたちがすごく高い自意識を持って舞台を勤めている姿もジーンときます。
あとは、こんなこと中学高校時代には考えもしなかったけど(なんでだろう…)、やはり男性がいると舞台に迫力が出ていいなー。あんなダイナミックなジャンプとか、アクロバティックな立ち回りとか、宝塚じゃできないもん。
じゃあ、宝塚の魅力って何なのか。告白すると、舞台を観ている間じゅう、ずっとそれを考えてました。宝塚には宝塚の、四季には四季の上演方法や役の当て方がある。四季のロングラン方式と、上演期間をあらかじめ限定する宝塚の方式もそう。どちらの良い悪いを言うのではなく、どちらも観客を惹きつける魅力を持っていて、それぞれがどんなふうに輝いたらいいのか。
男性が舞台に乗らない宝塚。ダイナミックさだったら絶対にほかの舞台に負けるはずなのに、宝塚に感動し、圧倒され、大満足していた高校生のころの私。当時の私のハートを射抜いていた宝塚の魅力って、一体何だったんだろうか。

私なりの結論、私なりの答えはあるんだけれど、同時に私は、それはファンが言い出すことではないと思っている。どんな魅力を前面に押し出し、どんなふうに輝くか、もっと生々しい言い方をするならばどんなふうに売り込むか、それは、劇団が考えることだと思っている。ファンは出された食事を食べるだけの存在だ。もちろん、思っていたのと違う食事が出てくることだってある。大好物が取り下げられてしまうことも。それでも劇場に足を運んでしまう、ファンってかなり哀しい存在でもある。でも、客席から伝わるファンのピュアな反応が、役者を育て、劇団を育てるし、同時にファンも育てていく、というのも確かだと思う。
日本のミュージカル界は、まだまだ発展途上だ。いわゆる輸入モノの作品をどう料理して見せるか。オリジナル作品をどうやって生み、育てていくか。劇場を、もっと気軽に立ち寄れる場所にするにはどうしたらいいのか。伝統芸能や映画、ほかの劇場芸術とどのように共存共栄していくのか。ミュージカルを通じて世間にどんなメッセージを発信できるのか。ビジネスとして確立するためにもまだ課題がいっぱいあるし、舞台の質向上も、客席の目や耳を肥えさせることも必要だと思う。ファンには、実のところミュージカルというショービジネスの成長過程を見守ることしかできない。

久々にミュージカルを観たばっかりにそんなことをしみじみ考えてしまいましたが、いやーやっぱり「キャッツ」はいいね!! 観たあと、あ~楽しかった! って心から思えるし、ゴキゲンで家に帰れる。明日から頑張ろう、って思える。道行くネコたちを以前とは違った目線で見てしまう。観ている間、何度も涙が出てきて、そのたびに心が潤っていくのを感じていた。毎日毎日頑張っている人たちが、ふっと仕事の手を休めて、心から楽しい気持ちになれるところ。そんな場所として、ミュージカルの劇場が、もっともっと社会に根付いてくれたらいいのにな。


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